自律の定義
ゆめみにおける自律の定義の背景として「自律をできるようにならなければならない」ではない。
「自律できる」という解釈が前提にある。
従って、もし「自律できていない」という解釈が生まれるとすれば、それは「自律できる」のだが「できる事をしていない」という解釈をする事を意味する。
我々は「できる事」を必ずしも「している」とは限らないのである
- We can control "Not You But We" - The only person whose behavior we can control is our own
- 誰かに命令を強制して行動させる事はできないです。逆に言えば、行動を命令されることもないです。
- 我々が他人に与えらえるのは情報だけです。そして、誰かの行動を強制的に止めることもできないです。
- また、自分の行動は、誰かに承認をもらったり、許可を得たわけではなく、自身が意思決定した結果である事を、常に認識できます。
- 誰かの依頼に対して、自身が行動すると選択をした結果、引き起こる感情は自身の選択の結果であり、その感情をコントロールできるのは自身だけであると認識できます。
- We can judge "Not To Do" by one's own rule
- 他人がルールや制約を示さなくても、自らの規範・常識に従い、行ってはいけない行動を、自ら判断することができます。
- We can judge any "What To Do" for consumer success by Proposal- Review -Request
- 全ての意思決定は、エンドユーザーであるお客様の成功のために行われます。
- その為であれば、原則として、誰がどんな意思決定をしても構わないです。ただし、意思決定プロセス(プロリク)によって、意思決定の品質を高めることが必要となります。
得られる効果
2.の結果、細かい規則・ルールを定める必要がなくなり、シンプルでアジリティを出せることになります
3.については、状況の変化に対応して機動的に動けますし、固定化された役割以外の問題意識、機会を見出せた人が判断を行うことができます。
解説
まず、多くの人は自由度が高く、選択できる選択肢が多くありたいと考えます。
一方で、その考え方が、「自分の思い通りに物事を進める事ができるべきだ」という誤った考えに発展する場合があり得ます。
よくよく考えれば分かるかもしれませんが、あなたが自分で自分の行動を決める事ができるということは、他の人も同じように対称的に自分の行動を決める事ができるのです。
つまり、あなたは他の人の行動を決めることはできない。つまり、自分の思い通りに物事を進めようとして、相手の行動を決める事はあなたにはできないのです。
では、チームのメンバーが身勝手な行動をしている場合にはそれを見過ごして良いのか?という意見が出ます。もちろん、見過ごすべきではないです。
その前に、まず自律の定義の2.にあるように、自らの常識に従って、身勝手な行動なども本人が判断でする事が「できる」としている事を理解してみます。
つまり、身勝手な行動をしている相手については、「身勝手な行動だと本人は思っていないので、その行動をしている」あるいは「身勝手な行動だと判断できているが、その上でその行動をしている」可能性があります。
その場合、身勝手な行動を見た時に、「あいつは身勝手なやつだ」と、あなたは「身勝手に相手を決めつけて判断している」可能性があります。
一方で、本人も身勝手だと判断できているが、その上で身勝手に行動しているケースについてはどう対処するべきでしょうか?
その方法の一つは、チームの行動を制約するような、ルールや標準、ガイドラインをプロリクで定めるのです。
ルールによって禁止事項を定めることもできます。ルールを守らない場合はイエローカードの対象となります。
では、そこで反論があるかもしれないです。
そうやってルールで相手の行動を禁止する事は、自律の定義の1に反するのではないか?
誰かに命令を強制して行動を禁止しているのではないか?
この場合も、自律の定義に反してはいないです
説明するために、このケースにおいて、チームを構成する要素を以下で抽出します。
①:身勝手な行動をとる為、その行為を禁止したい対象である「あいつ」
②:身勝手な行動を許容する事は、自律の定義3に反するので、その行動を禁止したいと考える「わたし」
ここで、「わたし」と「あなた」として、構成する対象を分離する時点で「わたし」は「あなた」とは他人である為、行動を強制させる事はできないです。
一方で、「わたし」と「あなた」を含むチーム全体を一人の「われわれ」として認識した場合には、「われわれ」自身は、当然「われわれ」の行動をコントロールできます。
従って、自律の定義1に反してはいないのです。
つまり、自己と他人という境界をどの範囲で捉えるかによる視点が大事になってきます。
もし仮に「Bさん、あなたは次のように必ず行動するべきだ」という発言をAさんがBさんにした場合に、「Aさん、あなたの言う事は強制だ」とBさんが発言したとします。
その場合、自律の定義1では「強制はできない」としています。つまり、Bさんは「強制はない」と言う前提でAさんの言葉を解釈するべきです。
つまり、Bさんは、Aさんの意見をもとにして、自律の定義2にあるように、自身で判断して行動できるので、Aさんの意見を意見として解釈すれば良いだけなのです。
以上から、意見が強制力を持っているかどうかの議論を行う事はゆめみでは不要にします。
ただし、強制性を持った言葉を使わないことを強制する訳ではありません。
したがって、義務です、強制です、命令ですという言葉が使われることは当然、あり得ます。その場合も解釈が重要になるのです。
言い方の問題として、暴力的な発言ではなく、相手に配慮すべき言葉として使うべきと言うのであれば、BさんはAさんに対して、そのようにフィードバックを行えば良いのです。
強制力という権限構造、意思決定のメカニズムの議論、独裁的な態度についての倫理性などの議論にすり替えて、BさんはAさんの主張を一旦受け止める事をごまかしてはいけません。
一方で、ここでAさんが本当にBさんの行動を必ず変える必要が、チームにとって必要であると考えるのであれば、本質的には自律の定義3にあるように、プロリクによって、Aさん、Bさん両方に適応される、ルール、標準、ガイドラインなどを定めるべきなのです。
実際のところ、「必ず行動を守らないとイエローカードの対象にするべきルール」を設定する場面は少ないです。
標準やガイドラインを設定する事がほとんどだと思います。標準やガイドラインは、その定義上から「必ず守らないといけない」訳ではないのです。
つまり、Aさんが「必ず」と発言するような完全性が必要なのかどうかも、改めて冷静に考えるべきなのです。